09 死よ死すべし
第九話 死よ死すべし
身体が、甘い匂いを吸い込んでいた。
息を止めても意味がない。
匂いは空気ではなく、マナへ混ぜられている。皮膚を覆う障壁に触れ、私の生体マナ場を探り当てると、変身衣装の内側へ染み込んできた。
背骨の奥が熱い。
心臓が一度、大きく鳴った。
胸から腹へ熱が落ち、腰の裏側で広がる。薄桃色の翼は勝手に開き、新しい群れの奥へ身体を向けようとした。
「動くな」
自分へ命じる。
右腕が遅れて止まった。
返事をするみたいに、黒い裂け目から女たちが飛び立つ。
サキュバス。
頭部から曲がった角。背中には蝙蝠に似た翼があり、細い尾の先へ命令端末が埋め込まれている。一体ずつの外見は違うのに、飛び方だけが揃いすぎていた。
百体ほどが外郭へ広がり、私を中心に大きな輪を作る。
攻撃してこない。
歌い始めた。
言葉にはなっていない。高い声と低い声が重なり、身体の内側へ一定の間隔で圧力をかける。
甘い匂いが濃くなる。
私の身体も、同じ間隔で脈打った。
知っている。
この反応を知っている。
知らないはずがなかった。
手術台の上で、何度も作られた反応だ。
「やめて」
声が震えた。
大鎌を握る手から力が抜ける。薄桃色の刃が揺らぎ、輪郭の一部が霧へ戻った。
サキュバスの輪が狭まる。
歌の底へ、別の音が混じった。
機械音に、液体を送る音と、刃物が並べられる音が重なる。
目の前にあるはずの外郭が白くなる。
黒い地面は手術台へ変わり、砲台の赤い光が無影灯になった。両手首へ金属の拘束具が閉じる。脚も動かない。口には何かを噛まされ、息が浅くなる。
照明の向こうから、鳥の嘴のようなマスクが覗き込んだ。
“少しばかり、続きを書き換えるだけだ”
「違う」
ここは外だ。
私は飛んでいる。
拘束具なんてない。
そう思っても、右手が開いた。大鎌が消える。
サキュバスたちは私を誘惑しているのではなかった。
欲望なら知っている。食欲や眠気と同じで、強くても私のものだ。誰かに相談し、薬を飲み、折り合いをつけられる。
これは違う。
改造されたとき、身体へ作られた命令経路を探している。
刺激の順番、呼吸の深さ。どの神経へ、どれだけのマナを流せば、思考より先に身体が従うか。
オブリビオンは全部知っていた。
この身体を作ったのだから。
歌が一段、高くなる。
翼が畳まれた。
浮力を失い、私は外郭へ向かって落ちる。
止めようとしたのに、腕は身体を守ろうとしなかった。
代わりに胸を開く。
従順な姿勢。
「や、めろ……!」
黒い影が上から重なった。
ワイバーン。
歌の輪の外で待っていた個体が翼を畳み、私へ突っ込んでくる。魔法ではない。硬化した頭蓋と何十トンもの身体を、そのままぶつける気だ。
避けなければ死ぬ。
分かっている。
身体が動かない。
衝突。
障壁が間に合わず、ワイバーンの額が腹へ入った。
息が消えた。
身体ごと地面へ叩きつけられる。星の外殻が割れ、黒い装甲片と赤い肉が噴き上がった。
痛みが遅れて来た。
腹の奥を潰されたように重く、背中は焼けるように痛い。変身衣装の障壁が自動で立ち上がったものの、表面には亀裂が残っている。
立たないと。
視界の端で、別の影が動く。
四本腕のドラゴノイドが外殻を走ってくる。上の二本には戦斧、下の二本には杭打ち機。どちらもマナ兵器ではなく、重い実体兵器だった。
私は左手を地面へつく。
指が曲がらない。
サキュバスの歌が、身体へ新しい命令を流す。
“待て”
“受け入れろ”
“所有者を見よ”
喉が勝手に鳴る。
視線が、城塞の中央塔へ向こうとする。
ノワルミアがいる方角。
「私の、身体よ」
声が掠れた。
ドラゴノイドが戦斧を振り上げる。
“待て”
「私が」
脚へ力を入れる。
動かない。
“受け入れろ”
「動けって」
戦斧が落ちる。
私は動けなかった。
代わりに、地面を殺した。
左手から薄桃色の霧が染み込む。
外殻を覆っていた黒い細胞が一斉に壊死し、装甲と筋肉の接続が剥がれた。ドラゴノイドの踏み込んだ場所だけが陥没する。
巨体が傾いた。
戦斧は私の肩を外れ、すぐ横へ突き刺さる。重い衝撃が地面を走り、身体を浮かせた。
その揺れで、右腕が少し動く。
十分。
消えていた大鎌を作り直す。
刃は短く、形も歪んでいた。それでもドラゴノイドの足首へ届く。
位相を裂いた。
巨体が倒れる。
私は転がって下敷きを避け、膝をついた。
息が戻らない。
腹を打たれたせいだけではなかった。歌に合わせて呼吸を管理されている。吸う量も、吐く時刻も、私の意思から外れていた。
サキュバスの輪を見る。
全員が同じ呼吸をしていた。
歌う個体がいて、匂いを広げる個体がいる。さらに別の個体が私の反応を読み、次の刺激を調整していた。
別々の身体で、一つの術式を作っている。
私の呼吸も、その中へ組み込まれようとしていた。
なら。
繋がっている。
◆
三年前。
改造が終わったあと、私は一度だけ、研究員へ噛みついた。
逃げるためではない。
逃げられる状態ではなかった。
身体へ触れた手が嫌で、考えるより先に歯を立てた。
口の中へ血が入った瞬間、その研究員の生体マナが流れ込んできた。心拍、興奮、恐怖。身体の内側にあるものが、味として分かった。
同時に、私の恐怖も相手へ流れた。
研究員は泣き叫んで倒れた。
私は、その隙に殺されかけた。
あとで聞いた名前が、《マークス・オブ・キス》。
淫魔同士が、接続した生体マナの負荷を交換する技術。名前の通り、接吻を媒介に刻むのが一般的らしい。
快楽を分け、興奮を回し、群れ全体の効率を上げる。私の場合は、噛みついた傷と混ざった血が代わりになった。
私は二度と使わなかった。
自分へ付け足されたものを、自分から使いたくなかった。
それで困らなかった。
今までは。
「繋いだの、そっちだからね」
サキュバスたちが歌う。
私は呼吸を合わせた。
抵抗しない。
身体を開く。
甘い匂いを受け入れ、命令経路へマナを通す。
接吻も血もない。けれど、命令経路へ直接流し込まれたマナが、私を群体術式の一部にしている。媒介が違うだけで、接続はもう成立していた。
背骨を這う熱が強くなる。視界が桃色に霞み、指先の感覚が遠ざかった。
輪の一部で、サキュバスが笑った。
捕まえたと思ったらしい。
まさか。
単に私は『接続した』んだ。
こちらからも届く。
私は歌に合わせて、息を吐いた。
呼気へ混ざった自分のマナが、輪の中へ流れ込む。
恐怖。
痛み。
三年間、毎朝鏡を見るたびに飲み込んだ嫌悪。
誰かを傷つけるかもしれないと眠れなかった夜。
それでも、いおどの朝食を作るために起きた時間。
一人分の身体へ収めてきたものを、接続された全員へ分ける。
歌が乱れた。
先頭のサキュバスが喉を押さえる。
別の一体が翼を畳み、隣の個体へぶつかった。匂いを放っていた者たちは、自分たちが流した刺激を何倍にもして受け取り、呼吸を崩していく。
群れの同調が外れた。
一つだった術式が、百の身体へ戻る。
その瞬間、私の右手も戻ってきた。
指を握る。
私が握った。
大鎌を形成する。
今度は刃先まで揺れない。
地面を蹴る。
混乱したサキュバスの輪へ飛び込み、最も近い個体の尾を断った。命令端末ごと切り離された身体が跳ねる。
殺さない。
次の一体も、翼ではなく首輪を狙う。
三体目は背中の管。四体目は腹部へ埋め込まれた同調器官。
装置を失った女たちは外郭へ落ちた。
追撃しようとしたワイバーンへ気弾を撃つ。
距離は短い。倒すほどの威力はないが、翼の付け根へ当てれば姿勢を崩せる。墜落したサキュバスへ届く前に、黒い巨体が横へ流れた。
ドラゴノイドが二体、左右から来る。
大鎌を消す。
相手は重い実体兵器を持っている。質量のない刃で受ければ、こちらが潰される。
左の戦斧を避け、柄へ手を添える。
薄いマナ包絡を作り、武器の慣性直線を下へずらした。
戦斧が持ち主の予想より深く地面へ食い込む。
ドラゴノイドの腕が伸び切ったところへ、肘を打ち込んだ。接触の奥で復相衝撃を開き、関節を内側から砕く。
もう一体の杭打ち機が背中へ迫る。
振り返らない。
壊した個体の戦斧を蹴り上げ、包絡で軌道を横へずらす。
重い刃が二体目の杭へ衝突した。
金属同士が噛み合う。
その隙に懐へ入り、胸へ掌を当てた。
殺す。
命令器官だけを。
薄桃色の霧が胸部装甲の隙間へ入る。心臓でも肺でもない。脊椎に沿って増殖した、赤黒い神経節へ死を流し込んだ。
ドラゴノイドの四本腕が止まる。
戦斧と杭打ち機が手から落ちた。
巨体は倒れない。
胸を上下させ、自分の呼吸を探している。
「そう」
私は一歩離れる。
「自分で吸って」
ドラゴノイドは私を見た。
命令端末が沈黙しても、瞳の焦点は消えなかった。
◆
外郭の門が、また開く。
ワイバーン、ハーピィ、ドラゴノイド、サキュバス。
どれだけ倒しても、暗い城内から次の群れが出てくる。
先ほどより多い。
涜船エグジラは、星ひとつ分の工場だ。
一体を殺す間に、どこかで十体が培養される。百体を止めても、別の区画から千体が運ばれる。
私一人のマナには限りがある。
向こうの在庫に、同じ限りがあるとは思えない。
だから、数えてはいけない。
兵士ではなく、兵士を作り続ける仕組みを見る。
外郭を見渡す。
塔から伸びた太い血管が、防衛隊へ命令を送る半透明の膜へ繋がっている。
兵士の首輪と尾の端末。砲台の基部では、損傷を埋める補修細胞が増殖を続けていた。
全部、生きている。
生かすためのもの。
同時に、この星で死を作り続けているもの。
私は元々、死を司る魔法少女だった。
触れたものを枯らす。
傷を腐らせる。
動く死体を、正しい死へ戻す。
オブリビオンはそこへ、淫魔の身体を付け足した。
生体マナを読み、繋ぎ、活性化させる力。
三年間、混ざらないと思っていた。
死と生。
魔法少女だった私と、手術台の上で作られた私。
けれど。
死なせる場所を選ぶには、生きている場所を知らなければならない。
私は両手を外郭へ置いた。
薄桃色の霧が、指の間から流れる。
いつも夢船ピュアコットンを覆っているものより濃く、戦場を腐らせる瘴気より静かだった。
「死よ死すべし」
外郭の血管へ入り、塔へ上り、開いた門の内側へ広がっていく。
手当たり次第には殺さない。
心臓を避ける。
肺を避ける。
自分で動こうとしている神経を避ける。
異常な増殖だけを止める。
痛みで命令を通す器官を止める。
身体の恐怖を無視させる回路を止める。
生き物を、在庫や兵器として繋いでいるものを死なせる。
霧の向こうで、命令端末が一つ消えた。
続けて十。
百。
防衛隊の半透明な指揮膜が色を失う。
飛び立とうとしていたワイバーンが動きを止めた。
翼を広げたまま周囲を見て、命令が来ないと知ると、城塞とは反対側へ飛び去った。
ハーピィも続く。
墜落したサキュバスたちは、立ち上がって互いの顔を見た。
何人かは首輪を外そうとし、外れないと分かると、私ではなく門の陰へ逃げ込んだ。
ドラゴノイドは武器を置いた。
追わない。
私を殺そうとした。
実際、何度か死にかけた。
それでも、命令から外れた背中へ大鎌を振るう理由はなかった。
霧をさらに奥へ送る。
エグジラの内側には、外郭より細かな接続が張り巡らされていた。
監視用の目。警報を伝える神経。首輪へ命令を送る管。侵入者を囲むため、通路を走っていた兵士たち。
それらが、薄桃色の霧へ触れた順に沈黙する。
全てを止めるほどの出力はない。
数秒。
長くても一分。
それでいい。
誰かが中にいるとは知らない。
ただ、いおどへ繋がる管も、いおどを見張る目も、この中にある。
殺してはいけないものを避けながら、死なせるべきものを探す。
霧が深く潜った。
触れた。
小さな心拍。
知っている。
毎朝、起こすときに聞く呼吸。
熱を出した夜、隣で数え続けた脈。
私の服を掴んだまま眠る、小さな手の生体マナ。
「いおど」
外郭へついた両手が震える。
生きている。
城門の奥。
中央塔より下。培養区画に近い。
位置を掴もうと、瘴気を細く絞る。
その瞬間。
小さな心拍が、四つに分かれた。
違う。
分かれたのではない。
東西南北の区画で、同じ脈が一斉に始まった。
呼吸の間隔も。
体温も。
私を呼ぶときに跳ねる、あのマナの癖まで同じ。
四人のいおどが、同時に目を覚ました。