17 再捕縛
第十七話 再捕縛
薄桃色の刃が、ノワルミアの白い喉へ迫る。
届く。
そう思った瞬間、彼女の右手が上がった。
大鎌の刃を掴む。
固体化マナの境界面へ、素手で。
ノワルミアの指から赤紫の血が滲んだ。皮膚は裂けている。それでも刃は、喉へ届く寸前で止まった。
「遅い」
小さな身体から、信じられない力が返ってくる。
大鎌を押し戻された。
柄を握る両腕が軋む。刃の形が崩れ、薄桃色の粒子がノワルミアの手の中で散った。
「妾が座っておるだけの飾りとでも思うたか?」
左手がヒュンと音を立て、かすむ。
腹へ衝撃。対応が間に合わない。
拳だった。
障壁を張る間もなく、身体が玉座の階段から吹き飛ぶ。親衛個体の間を抜け、謁見室の床へ背中から叩きつけられた。
息が詰まる。
転がる勢いを翼で殺し、片膝をつく。
腹の古傷が熱く痛む。
ノワルミアは追ってこない。
玉座の前に立ったまま、裂けた右手を見ていた。
傷口が閉じる。
周囲の壁から赤紫のマナが流れ込み、切れた皮膚を内側から繋いでいく。数秒も経たず、血の跡だけが残った。
「エグジラは妾。妾はエグジラ」
彼女が一段降りる。
床下の機関が脈打った。
「この星で妾に挑むとは、海の中で海を殺そうとするようなものじゃ」
「海だって、死ぬよ」
立ち上がる。
大鎌を作り直した。
刃先が少し揺れる。
外郭戦。
サキュバス。
偽物の心拍。
指揮生体核。
使ったマナは戻っていない。
ノワルミアには、星ひとつ分の蓄えがある。
正面から出力を比べれば勝てない。
比べなければいい。
◆
親衛個体が六方向から来る。
正面の二体は大斧。
左右に杭打ち機。
後方の二体はマナ砲を展開し、長い射線を取るため壁際へ下がった。
ノワルミアは動かない。
親衛個体だけで勝つつもりはない。私のマナと身体を削り、最後に自分で折るつもりだ。
右の大斧が振り下ろされる。
受けずに踏み込む。
斧の柄へ大鎌を絡め、親衛個体の力を利用して身体を引き上げた。肩へ着地。後方のマナ砲がこちらを照準する。
親衛個体を蹴り、跳ぶ。
砲撃。
赤紫の光が、今まで立っていた個体の頭部を貫いた。
普通の生体兵器なら止まる。
首から上を失った親衛個体は、大斧を持ち直した。
装甲の内側から新しい肉が盛り上がり、顔の輪郭を作り始める。
再生が速い。
ノワルミアからの供給だろう。
私は床へ着地し、薄桃色の霧を広げた。
兵士を殺すのではなく、玉座から伸びる接続を探す。
六本。
親衛個体の背骨へ、壁と床を通って赤紫のマナが流れている。
一本目を瘴気で止める。
頭部を再生していた肉が崩れた。
「供給を切れば、死ぬ」
「ならば繋ぎ直すまで」
ノワルミアが指を動かす。
切った接続の隣から、二本の新しい管が生えた。
一本を殺せば二本。
二本を殺せば四本。
エグジラの床が、親衛個体へ向けて根を伸ばしてくる。
数で付き合ってはいけない。
大鎌を横へ振る。
親衛個体ではなく、床を裂いた。
薄桃色の刃が謁見室を横断し、赤紫の管をまとめて切断する。
六体の動きが一度に鈍った。
その隙へ、中央を抜ける。
ノワルミアまで十五メートル。
彼女が初めて玉座を離れた。
階段を蹴る。
黒いドレスが視界から消えた。
……上!
見上げるより早く、踵が肩へ落ちた。
障壁を勘で合わせる。
薄桃色の面が生成され、一発で砕ける。
片膝が床へついた。
ノワルミアは私の障壁を足場にしてもう一度跳び、空中で身体を反転させる。次の蹴りが側頭部へ来る。
大鎌の柄で受けた。
軽い身体。
衝撃は軽くない。
柄ごと頭を押され、床を滑る。
踏み止まり、刃を返す。
ノワルミアは着地と同時に上体を反らした。刃が喉の皮膚を浅く裂く。
赤紫の血。
今度はすぐに塞がらない。
床の接続を切った効果が残っている。
「なるほど」
ノワルミアが傷へ触れる。
「力任せだけではないか」
「十九歳だからね。少しは考える」
「三年前は、もっと愚直であった」
「十六歳だったから」
返事をしながら距離を測る。
会話で休む。
呼吸を戻す。
ノワルミアは気づいている。
それでも付き合った。
自分が負けるとは考えていないから。
「成長したところで、妾へ届きはせぬ」
赤紫のマナが彼女の両手へ集まる。
武器にはならない。
五本の爪だけが長く伸び、指先へ薄い包絡をまとう。
ノワルミアが踏み込んだ。
速い。
右から爪。
大鎌で受けると、マナ境界の刃へ亀裂が入った。
包絡を削られている。
二撃目。
柄を短くし、間合いを詰める。長い鎌では追いつかない。
爪が頬を掠める。
熱い。
血が浮く前に、傷口の周囲が痺れた。爪から生体マナへ命令を流し込まれている。
“開け”
細胞が傷を広げようとする。
死の瘴気で、命令を受けた細胞だけを止める。
出血が止まった。
その間にも三撃目。
胸。
避けきれない。
左腕を入れる。
変身衣装が裂け、五本の赤い線が走った。
ノワルミアの膝が腹へ入る。
身体が浮く。
髪を掴まれた。
そのまま床へ投げられる。
受け身を取る前に背中が落ちた。
視界が白くなる。
ノワルミアの踵が胸へ向かう。
翼を床と身体の間へ広げ、薄い障壁にする。
直撃。
床が陥没した。
障壁は消え、翼の片方も形を失う。
痛い。
息を吸えない。
ノワルミアの足が胸を踏んでいる。
「終いか?」
違う。
左手は動く。
床へ触れる。
彼女の足元へ瘴気を入れた。
ノワルミア自身ではなく、靴底と床を繋いでいる生体組織を殺す。
支えが消えた。
彼女の身体がわずかに傾く。
右膝を胸へ引きつけ、その腹を蹴った。
ノワルミアが後ろへ飛ぶ。
私は転がって立ち上がる。
左翼が戻らない。
胸の痛みも深い。
敵は空中で姿勢を直し、何事もなかったように着地した。
ただし、口元に血がある。
蹴りは効いた。
「妾へ足を向けたな」
「踏んだの、そっちでしょ」
奴は笑った。
初めて、楽しそうに。
「よい。商品ではなく、敵として壊してやろう」
◆
謁見室の壁が開いた。
赤紫の管が何百本も伸び、ノワルミアの背中へ接続される。
ドレスが裂けるのではなく、管を通すために形を変えた。黒い布の隙間から、細い金属骨格と生体端子が見える。
星との直結。
親衛個体へ分けていた供給が止まり、全て彼女一人へ集まる。
倒れていた六体が動かなくなった。
その代わり、ノワルミアのマナ反応が膨れ上がる。
外郭で見た指揮個体。
砲台。
サキュバスの群れ。
全部を一人へ押し込んだような圧力。
「これが、妾じゃ」
声が謁見室だけでなく、床と壁から響いた。
「貴様が単騎で挑んだ、星ひとつ分の敵じゃ」
赤紫の光が放たれる。
砲撃ではない。
空間そのものが前へ押し出された。
私は残った右翼で横へ跳ぶ。
飛翔が遅い。
衝撃へ巻き込まれ、壁へ叩きつけられる。
変身衣装の障壁が点滅した。
立つ前に、床から槍が生える。
一本目を避ける。
二本目を大鎌で裂く。
三本目が脇腹を掠める。
四本目。
五本目。
謁見室そのものが攻撃してくる。
柱が腕になり、壁の血管からマナ弾が放たれ、床の装甲が足を挟もうと閉じる。
ノワルミアは中央に立ったまま、全てを動かしていた。
近づけない。
大鎌を一度消す。
両手を空け、マナ弾を撃つ。
狙いはノワルミアではない。
背中へ繋がる管。
薄桃色の光が飛ぶ。
床から生えた障壁が受け止めた。
届かない。
次は気弾。
拳の動きをマナへ写し、障壁の端へ撃つ。
衝撃で境界面が傾いた。
そこへ二発目のマナ弾。
隙間を抜け、一本の管へ当たる。
赤紫の光が散った。
ノワルミアの右腕がわずかに下がる。
供給管ごとに、身体の機能を分けている。
切れば、弱くなる。
問題は、何百本あるかだ。
全部を狙う必要はない。
最低限の出力。
右腕。
障壁。
あいつ全体を止める機能だけ。
薄桃色の瘴気を霧ではなく、細い糸へ変える。
床へ這わせる。
ノワルミアは気づいた。
壁の火炎孔が開く。
赤紫の炎が床を焼き、瘴気の糸を消していく。
全部は消えない。
一本だけ、親衛個体の死体の下へ隠した。
床から壁へ。
壁から管へ。
ノワルミアの背中まで辿り着く。
死を流す。
三本の管が黒く枯れた。
ノワルミアの左側で障壁が揺らぐ。
今。
右翼を最大まで開く。
片翼では真っ直ぐ飛べない。
最初から、曲がる軌道を取る。
右へ大きく弧を描き、床の槍を避ける。壁から来るマナ弾は、飛び始めの方向だけを見て身体を外した。
ノワルミアへ近づく。
彼女が右手を向ける。
赤紫の衝撃。
左へ避ける。
片翼の軌道と一致した。
身体がさらに曲がり、ノワルミアの側面へ回る。
大鎌を再形成。
短い刃。
爪とぶつかる。
ノワルミアの包絡が刃を削る。
構わない。
大鎌を捨てる。
刃が消えたことで、押し合っていた彼女の腕が前へ流れる。
懐へ入った。
左の掌を胸へ当てる。
マナ打撃。
復相衝撃を、身体の奥で開く。
ノワルミアが初めて大きく仰け反った。
背中の管が何本も千切れる。
赤紫の血が飛ぶ。
彼女の肘が私の肩へ落ちた。
骨が鳴る。
左腕が下がった。
右の爪が喉へ来る。
首を傾ける。
肩口を深く裂かれた。
互いに離れる。
私は着地できず、片膝をつく。
ノワルミアも一歩下がった。
ドレスの胸元が破れ、皮膚の下で赤紫の亀裂が走っている。
すぐには治らない。
供給管の半分近くが切れていた。
「貴様」
ノワルミアの声から、余裕が消えた。
「星の中で、妾を傷つけるか」
「海だって死ぬって、言ったでしょ」
立ち上がる。
肩の傷で左腕は上がらない。片翼で、マナも残り少ない。
ノワルミアはまだ立っている。
それでも。
届かない相手ではない。
◆
ノワルミアが管を引き抜いた。
自分から。
背中へ残った接続を全て切り離し、赤紫の血を床へ撒く。
「星の力へ頼るから、接続を狙われる」
傷ついた胸へ手を当てる。
周囲からマナを集めない。
自分の中へ残った力だけを圧縮していく。
先ほどまでの巨大な圧力が消えた。
代わりに、彼女一人の輪郭が鋭くなる。
「妾自身で、貴様を折る」
消えた。
目で追えない。
頬へ衝撃。
視界が回る。
背後へ回られている。
振り向く前に、背中を蹴られた。
床へ倒れる。
手をつき、横へ転がる。
爪が床を裂いた。
速さが違う。
星との接続を切り、遅延がなくなった。
ノワルミアは、この身体で私より遥かに長く戦ってきた。
私は十九歳。
技量だけでも、向こうが上だ。
爪。
拳。
蹴り。
攻撃の間へ隙間がない。
大鎌を長くすれば内側へ入られ、短くすれば爪に削られる。障壁は一撃で割れ、瘴気を流す時間も与えられない。
傷めた側へ拳と膝が集中し、呼吸も構えも崩される。最後の掌底で身体が浮いた。
ノワルミアの爪が腹へ伸びる。
今までなら避ける。
避けない。
薄い障壁を腹の表面へ重ねる。
爪が貫く。
一枚。
二枚。
三枚目で速度が落ちた。
衣装を裂き、皮膚へ届く。
浅い。
ノワルミアの腕は伸び切っている。
私はその手首を掴んだ。
「捕まえた」
ノワルミアの目が細くなる。
左腕は上がらない。
右手は彼女の手首を掴んでいる。
武器を持つ手がない。
だから、呼吸を吐く。
《マークス・オブ・キス》。
接吻ではない。
爪が私の血へ触れ、互いの生体マナが接続されている。
三年間の痛みを流す。
手術台。
鏡。
眠れなかった夜。
サキュバスの歌。
ここへ来るまでに受けた全ての傷。
ノワルミアの表情が歪んだ。
彼女の身体が一瞬だけ止まる。
その一瞬で十分。
右手を離す。
大鎌を形成。
片手で振り抜く。
ノワルミアは後ろへ跳ぶ。
刃が胸を裂いた。
深い。
赤紫の血がドレスを染める。
彼女は玉座の階段へ着地し、膝をついた。
私も立っていられない。
大鎌を杖にして身体を支える。
呼吸するたび、脇腹が痛む。
「その技も」
ノワルミアが傷口を押さえる。
「妾らが与えたものじゃ」
「使い方を決めたのは、私」
彼女が笑う。
血を吐きながら。
「ならば、その選択ごと手折ってやる」
玉座の肘掛けへ手を置いた。
小さな音。
機械の認証音。
床の下で、何かが起動する。
気づいた。
遅かった。
◆
杭が四本、床からせり上がった。
私を囲む位置。
三年前と同じ、黒い金属。
先端の透明な結晶。
見た瞬間、身体が冷えた。
逃げる。
そう判断した。
右翼へマナを送る。
開かない。
片翼だからではない。
杭の間へ透明な膜が広がり、体内のマナを外側から剥がしている。
反包絡場。
大鎌の刃が崩れた。
柄も消える。
親衛個体も、星との直結も、最後の格闘も、私をここまで消耗させるためだった。
この場へ閉じ込める余力さえ残しておけば、ノワルミアは勝てる。
支えを失い、膝をついた。
「知っておる」
ノワルミアが立ち上がる。
胸の傷は深い。
足元も揺れている。
それでも、笑っていた。
「貴様がここまで来ることも。妾を傷つけることも。最後には、これが必要になることも」
床を蹴る。
杭の外へ。
透明な膜へ触れる。
弾かれた。
マナだけではない。
身体の力まで抜けていく。
立たないと。
手を床へつく。
白い光。
拘束具の音。
手首を踏まれた痛み。
三年前の景色が、現在へ重なる。
違う。
ここは手術台ではない。
私は拘束されていない。
右手を握る。
動く。
動かせる。
親衛個体の一体が、膜の外で起き上がった。
頭部を失ったまま、床を這ってくる。
反包絡場の内側へ腕を入れた。
黒い手が私の手首を掴む。
振り払う。
力が入らない。
もう一体。
足首を掴まれる。
金属の指。
拘束具。
音がする。
かちり。
実際には鳴っていない。
頭の中で、何度も鳴った。
呼吸が浅くなる。
「嫌」
声が出た。
親衛個体の腕へ瘴気を流そうとする。
マナが形にならない。
死を届けられない。
自分の身体だけしか、残っていない。
拳を作る。
親衛個体の指を一本ずつ外す。
一本。
二本。
手首が抜ける。
立ち上がる。
脚を掴む腕を蹴る。
骨は折れている。
それでも動く。
杭まで三歩。
透明な膜へ拳を叩きつける。
痛い。
もう一度。
膜は揺れる。
割れない。
「無駄じゃ」
ノワルミアが近づく。
「三年前の貴様は、抵抗する力さえ残っておらなんだ。成長したのう」
「黙れ」
拳を振る。
膜の外にいる彼女へは届かない。
ノワルミアは避けもしなかった。
「だが、結果は同じじゃ」
違う。
いおどは助けた。
合図も送った。
結果は同じではない。
私だけが、ここから出られない。
それだけ。
そう考える。
手首へ冷たいものが触れた。
床から伸びた拘束具。
腕を引く。
間に合わない。
金属が閉じた。
かちり。
今度は、本当に音がした。
身体が止まる。
右腕だけではない。
左手も。
脚も。
命令しているのに、動かない。
「違う」
ここは手術台ではない。
「違う」
私は十九歳。
いおどを助けた。
自分の身体は、自分のものだと決めた。
分かっている。
頭では。
身体が分かってくれない。
反包絡場の膜が白い照明に見える。
ノワルミアの姿へ、ペストマスクの影が重なる。
息を吸えない。
指先が冷たい。
「やめて」
親衛個体が残る手足へ拘束具をつけていく。
一つ鳴るたび、現在が遠ざかる。
ノワルミアの足音が近づいた。
膜が一部だけ開き、彼女が内側へ入る。
傷ついた胸から血を流している。
圧倒した者の姿ではない。
私がここまで傷つけた。
もう一度動ければ、届く。
大鎌がなくても。
首へ噛みつくことくらいできる。
身体へ命じる。
動け。
動け。
動いて。
ノワルミアが目の前へ立つ。
顎へ手をかけられた。
顔を上げさせられる。
「妾の喉まで、よく届いた」
爪が頬の傷をなぞる。
「褒美に、次は壊れぬよう丁寧に飼ってやろう」
「私は」
声が掠れる。
「あなたのものじゃない」
ノワルミアの目が細くなった。
「それも、じきに忘れる」
不意に、唇が重なる。
流し込むマナがなければ、接吻はただの接触だ。
そして、首筋へ針。
冷たい。
薬剤が入る。
視界が暗くなる。
倒れることもできない。
拘束具に支えられたまま、ノワルミアを睨む。
最後まで。
博士は玉座の横で、全てを見ていた。
助けない。
止めない。
黒いレンズの奥で、私が負ける瞬間まで観測している。
意識が沈む直前、ノワルミアの声が聞こえた。
「全星系へ回線を開け」
「この魔女を処刑する」